近所の桜見物 2

さて次は木津川支流の神童寺川を遡る(旧山城町)。この川にも堤防に桜並木があったのだが、国交省の方針もあり(洪水対策に効果がない)手入れがなされなく、植樹もなされないため桜はだんだん減っていく。残った数か所のうちのひとつ「墓場桜」(命名は私)、古木が何本か元気に咲いていた→だが記憶色から花に赤みが消えていて、ほとんど白あるいは薄い灰色に変わってきたように思う。肥し気が足りないのだろう。

そして左岸に移ると「太陽光発電計画反対」の幟や看板ができていた。この川は天井川で昭和28年この付近が決壊して大被害が出た。地区の公民館前に碑が建っている。天井川ゆえに上流の森林を伐採すると保水力が失われ、ひとたび決壊すると川床より低い地区は浸水がひどいのである。ここだけではなく木津川のこの付近は同じ問題をかかえている。以前は(右)堤防に桜並木が続いていた。

その地区の堤防上に小さな児童公園があり、ここでは多少の手入れがなされているために堤防桜が残っている。遊ぶ子はいないが地区の人たちの散歩コースになっている。左奥に小さく見えているのが三つめの踏切近くの桜の群落である(18mmレンズなので遠く見える)。

残ったのは3-4本だ。しかし施肥されているため元気は良い。左の古木が堤防桜、右の3本は公園になった時に植えられた若い桜だ。

更に遡ると山に入る。神童子への別れ、追分桜が神童子への橋を挟んでやはり数本残っている。これも堤防桜なのだが、追分の印として残されたのかと思われる。なぜか桜にたくさんの竹が立てかけられていた。

山奥から帰り、里の北稲地区へ。ここは元の小学校の跡地で現在は運動公園になっていて、子供たちの遊び場や消防団の訓練場所に使われている。ここの桜は手入れが良くて、道路に枝が向かわぬように木々は運動場側に傾いている。このあたりの人々は宴会花見の習慣がないために花の下で弁当を広げるような光景は見られない(観光的な普賢寺は隣の町)。小学校の前は明治の初年まで観音寺という古刹があって、荒れていた場所に小学校・公民館・野菜の集荷場などができた。そのようないわれの碑も建っている。

地区の裏山を登るとてっぺんに再興された観音寺がある。無住ではあるが寺宝は残っているらしい。また次回近所の探索は続く(今日も行った)。