植田地区へ

さて稲植神社から、いつものとおり如来堂へ歩む。乱開発気味の住宅地も落ち着きを得始めていて、旧村部(植田地区)との境の区画も売れたようで基礎工事が始まっていた。

そして例によって如来堂前から町内を眺める...同じ景色だが、ここはボディのダイナミックレンジを見ているのである。ダイナミックレンジが広いのは良い事なのだが、どうしても平板な印象になってしまう傾向がある。少なくともシャドウ部はもう少し締まった方が良い(これも設定を付加する)。

新興住宅地の住民も土地に馴染んできたようで、子供たちが旧村部にも遊びに入りつつある。確かに景色は良いし静かで散歩にはよい。画面の右には子供たちの母親もいて「こんにちわ」と挨拶をしてきた。田舎には「新住民・旧住民」の区別が今もあり、私は30年近く前から住んでいるために旧住民に近くなっているのである。

植田地区と新興住宅地の間の擁壁と空間的隔たりを如来堂から見た。遊歩道は両者の妥協的産物で、本来は住宅地の裏庭になるはずだった。当初は明らかに対立的景観だったが、遊歩道側の植栽も大きくなり、なにより村落側の竹林や木々が大きく育って、徐々に景色の距離が縮まっている...段差は5mぐらいあるが、いずれ「裏の住宅地」として溶け込むだろう。右の人口は増え、左は減っている。

如来堂のブロック塀に腰かけて休憩...目の前に火災報知器があった。このお堂の中には元の如来寺の仏像が収められているのだから当然だ。このレンズ(24mm)の後ボケはキレイではない。

お堂脇の首切り地蔵(おそらく明治の廃仏毀釈で壊された)と、もうひとつの摩滅した仏像(二体が並んでいるため道祖神などの神像かも知れない)も健在で、誰か面倒を見ている人がいるのだろう、お堂付近も含めて清掃されている。

参道とは別に横から植田地区に入る道があるので、こちらを進む。左は柿の果樹園だったが放置されて久しく、今や草に覆われている。奥に地区の最奥の民家が見える。以前はもう少し明るかったが柿の木も含めて周りの木々の成長で、緑のトンネルのようになってきた。

今度は下から如来堂方向を見上げる。上の写真に写っている箱は防火用水の箱である。ここにも家が建っていたが、ずいぶん以前に取り壊され藪になっている。

地区最奥の家、かなり大きな屋敷だが無住で、たまに戻ってくるらしい。立派な長屋門に置かれた机には連絡先などを書いた紙が置いてあった。人が住まなくなると動物の住みかとなる...猫が今年生まれた仔猫も含めて10匹あまりが占拠していた。写真にも玄関前に白黒の猫が4匹写っている。もちろん道が細すぎてここへは車は入れない。

さて村中の道を下る。右は蔵のある古民家、左はスポーツカーのある新しい家とまさに工事中の民家(古民家→プレハブ住宅)...景観は少しづつ変わっていく。今は現実的な価格で在来工法の家は建てられないのでこれも仕方のないことだ。道は軽自動車なら通れる太さである。そこの交差点も左折は手前の地所に入って(内輪差)可能だが、右折は直進しバックで左の道に入ってからでないと回れない。

その小さな曲がり角を右へ曲がる。狭いがこの道が元の往還で町が指定した「河井寛次郎の愛した道」である。しばしば京都からここへ来て散策していたらしい。確かに風格のある豪農の屋敷が並び、ところどころに田畑の景色が望め、道に各字の神社や寺が見え隠れする道で、だいぶ変化した今でも歩くに気持ちの良い景色である。このような狭い場所での撮影が多いため最低でも24mmレンズが要るのだ。

そして地区の中心部、多少は道も広くなった。しかし右左折が難しいため宅配トラックの進入は難しい。地区に入って初めて住民に出会った。右へ曲がると如来堂への参道となる。

参道を登る...自動車はマンホールの場所までだ。その先はスクーターぐらいだろう。

そして新興住宅地の擁壁と如来堂...ここは壁も低いが左に行くと5mぐらいになる。

帰路。背後に新興住宅地と如来堂があり、その前の山は稲植神社と荒神社の森がある。元は荒神山から尾根が伸びて、その先端に如来堂があったのだが、20数年前下に4車線道路が通って山が分断され(地元対策として立派な陸橋が架けられた)、数年前に如来堂の一部を残して、こちらが住宅地として開発された。森の裏も見えはしないが20年程度前に住宅地になっている。

橋の上から...バスは昼間は数人しか人を乗せないまま15分に1本ぐらい住宅地と駅を結んでいる。道路はまだ完全には開通していないが木津から八幡までをつなぐ幹線道路となる(今も田辺まではつながっている)。木津川左岸域にはこれまで片側1車線(歩道無し)の府道しか南北縦通の道がなかったので致し方がないと思うが、これにより直接間接に歴史的景観が失われていくのは残念だ。