港の景観

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舞鶴を中心とした本を書く端緒となった「とぎれた堤防」=堤防道路の延伸を阻んだのはここに江戸時代から続く船大工の工場があったからである…写真は1998年1月=Leica M6+summicron50mmF2で撮影、この時から「Leicaだけで撮影」と決めた日でもある。

そして一昨日の同じ場所、架橋による保証も受けて船大工小屋も取り壊した。ここの親方とは30年来のつき合いである(架橋のいかんに関わらず80歳を越えたので引退と決めていたようだ)。堤防道路は延伸されなかったが、堤防は歩道と共に最近整備された…なにしろ船大工小屋は船の上げ下げをするために堤防が付けられず、それより下流の人々は高波の際、気がきではなかったのである。しかし船大工小屋はこの一角で一番古くから建っていて営業権も強く(舞鶴で一番古い船大工小屋)堤防はできなかったのである。その向こうに橋は架かるはずなのだが、まだまだ地元対策ができずに完成はいつになるか分からない。

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建設される橋への道路も工事は止まったままである。写真の左側は港の保税地でトラックの往来は頻繁で、この道も完成後は東方向へ抜ける輸送道路となる。道は元々国鉄舞鶴港線の跡地なので立ち退き問題は軽微なのだが、隣接住民は騒音や橋の下を船で潜れなくなるなど、弊害も懸念しているものと思われる。道路の右側は古くからの住宅・船大工小屋・回船問屋の倉庫などが建っていたが、道路建設で便利になることを当て込んで新築の分譲・賃貸住宅が増えている。しかし貨物線の踏切の骨組みはどうしたわけか撤去されずに残されている。今年の秋にも「港の景観」の最後を見届けるために工事の進展を覗いてみるつもりだ。

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2004年の同じ場所…廃線は1980年頃だが、この頃までは線路の跡は残っていた。

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